腰痛と音楽、文学、映画についてのお話。
昨日、四番のリリース・パーティで下北沢440に行ったら、
井乃頭蓄音団のヴォーカル、松尾よういちろう氏がいて、
僕に近づいてひと言、「腰、やっちゃいました」。
僕自身、高校時代からの腰痛持ちで、基本的に
重いものは持たない、くしゃみするときには何かにつかまる、
など腰に負担をかけないように毎日を生きているのだが、
ぎっくり腰含め、腰痛はホントにつらい。
で、昨日の松尾くんも相当痛そうにしていたのだが、
それでも終演後一生懸命お客さんにチラシを配る姿に、
自分の音楽を一人でも多くの人に知ってもらいたい、
というミュージシャンとして当たり前の真摯な思いを
見るわけです。
ところで、井乃頭蓄音団というか松尾くんのレパートリーに、
「腰痛」という曲がある。
あるとき、松尾くんに向かって「あの曲は世界に通用するね」
と云ったことがあるくらいグローバライズされた曲なんだが、
彼らの全国流通アルバム『素直な自分』には収録されておらず、
ソロ・ライヴで時々披露されるくらいなので、あまり知られて
いないかもしれない。
『松尾よういちろう裏ベスト6 Ⅰ & Ⅱ』という会場売りCDに
収録されているのだが、今でも売っているのだろうか?
えーと、その曲「腰痛」は、人間いかに腰痛になると言葉が出ない
くらいに痛いか、ということを簡略な歌詞で表現した名曲です。
そして腰痛と云えば、西村賢太『苦役列車』に収録された
「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」だ。これも腰痛がいかにつらいか
をつぶさに描写した素晴らしくダメダメな短編。
この本、一回読んで松尾くんに貸した後、ジョニーさんに貸したまま
なので詳細覚えていないけど。
そんでもって昨日、平野勝之監督の映画『監督失格』を観ていたら、
ここでも腰痛が重要な小道具?として出てきた。
そのシーンを挿入する「必要」があった。そして腰痛は「必然」。
ふむ。
音楽、小説、映画と表現は違えど、そこには何か共通したもの、
意味があるような気がして。
それは、腰痛を患ったことのある人にはよーくわかると思うけど、
"どうにもならない情けなさ" だと思う。
体の中心である腰が痛いと、笑っちゃうくらい何にも
出来なくなってしまうのだ。
痛い、動けない、無理に動くと非常に滑稽な姿になる。
普段、五体満足で何不自由なく生活をしている者ほど、
腰痛になったときにそのギャップが大きくのしかかる。
深刻な腰痛をお持ちの方には失礼な表現かもしれないが、
腰痛にはどこかファニーな香りがある。
見た目間抜けだから。
「大丈夫ですか?」って手を貸す人もなんか笑みを含んでいたりする。
たとえば、歯痛のシリアスさに比べてみるとよくわかる(のか?)。
そして、腰痛を押してでも何かしなければいけないときの、
滑稽を通り越した涙交じりの切実さ、とか。
あともう少し考察すると、腰を患うことによる、性的劣等感という
か無力感、なんてところにも到達するんだが、
そんな面白いテーマ、これ以上深くは触れません(笑)。
西村賢太の小説は「現代の私小説」と称されることが多いが、
私小説といえば病気と貧乏が2大テーマじゃないか?
井乃頭蓄音団の音楽、平野勝之の映画、西村賢太の小説、
これらは私小説的手法を利用したエンタテインメント、という
意味で共通項あるのかもしれん。
そこに横たわる「腰痛」。
いろいろ考えてみたけど、やっぱ腰痛以外の病気や
症状では、ちょっとニュアンスが違ってしまうのだな。
腰痛じゃなきゃいけない。
そういえば世界に目を向けると、最近DVD化された
映画『ソウルキッチン』も腰痛が重要な要素として扱われている。
すごく面白い映画だけど、こちらには私小説的な匂いはない。
というかその私小説的な匂いって、日本独自というか、
もしかしたらイメージとしての「昭和」的なるもののことを
指すのかもしれない。
そうそう、井乃頭蓄音団には「昭和」という曲もあって(以下、
長くなるのでここで強制終了)。
それにしても、今まで書いたことのないタイプのブログだな。
これはこれであり、なんだろうか・・・?
次はいつか、同じく持病の痛風について書きたいと思います(うそです)。